notes

2019.10.31

木曜夜の上映会。今日は森元先生セレクトによるPeople will talk。自宅でも映画館でもない「上映会」という場は、上映作品と一緒に観る人たちを含めて親密な時間をつくる。今年の秋の上映会で観た映画のことを一生忘れないだろうと思う。

このところ自分の研究課題を調査するための時間がなかなか取れないこともあり、調査のために時間を捻出せねばとばかり考えていたけれど昨日ぐらいからそうは言っても仮に充分な時間を用意して研究に専念してとしても、ずっと図書館と映画館と美術館にしかいなかったら(それはそれで素晴らしいけど)どうせすぐにつまんなくなって誰かとお茶したりお酒飲んだりしたくなるんだよ。と思いはじめていて、そういう気持ちであるときにこの映画を観たので、偶然にも心情と重なり合う部分が多かった。他者の価値基準に従うのではなく自分自身が価値ありと判断したその判断に従うことによって得られる幸福や、ただ愛すべきものに惜しみない愛を注ぐこと。深刻にならないこと。作品への愛。研究、愛、日々。を楽しむ。

森元先生が上映後のコメントをしゃべるときに泣きながらというのがとても良かった。本当にいい先生です。

2019.10.26

博士論文の公開審査を五時間聴講してつかれた。途中から頭痛くなった。自分の作品に戻りたい。自分の作品の中にある緊張感と適当さに。

使ってるのは頭じゃない。

 

 

 

2019.05.23

語るときに、過去が固定される。この語りが流動的であれば、過去は固定化されない。

 

 

固定した意味を与えるのではなくて、意味は流動的であることを示し、しかし判読されるべき意味の手がかりとして、テープ(写真)を存在させている。

2018.04.06

判断は、「例えば、風見鶏が風の方向を指示したり、温度計が気温を指示してたりするように」なんらかのものを媒介にして兆候として表意するしかない。

判断は何かを媒介にして、兆候として現れるしかないのだけど、その媒介には根拠はない。
それはつまり、私たちには知覚を拒否する力がない、ということ。
知覚は無媒介で無根拠。

2017.08.07

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2017.07.20

自己紹介

2017.02.09

2017.02.09

I know I am sentimental.

You would like these images to be more abstract.

It’s OK.,call me sentimental.

You sit in your own homes,

but I speak with an accent and you don’t even know where I come from.

These are some images, some sounds recorded by someone in exile.

 

From LOST, LOST, LOST

2017.02.09

「今この日記を読み返してみても、事実なのかフィクションなのか、もうわからなくなっている。」

Jonas Mekas

2016.12.28

ボブ・ディランは予定通りノーベル文学賞の授賞式には欠席したけれど、晩餐会で本人のスピーチが代読された。そこで彼は「ディランのリリックは文学なのか」という問いにこう応えている。「きっとシェイクスピアも世俗的なことに煩わされたでしょう。この物語の舞台はほんとにデンマークで大丈夫か?とか、この役に相応しい役者は誰だ?とか、パトロンのための座席は準備されているか?とか、舞台で使う人骨はどこに手配しよう?とか。だけどシェイクスピアは、これは文学か?なんて自問しなかっただろう」。
つくっている最中、計画を実現させることに夢中で、それが文学として相応しい形であるかどうかなんて、気にしている場合じゃない。というか、そもそもそんなことを気にしながら、作品をつくる人なんているのか?という、応答。

ところで、一昨年の受賞者スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチはジャーナリストで、ジャーナリストとしては初の受賞者だった。
私は彼女の作品が文学であるというノーベル文学賞の立場にとても興味がある。(ボブ・ディランの話題ほどはホットではないかもしれないのだけど。)
先日来日したアレクシエーヴィチの講演を聞いていて、この人はベンヤミンの「物語作者」みたいなことを言うんだなあ、と思った。アレクシエーヴィチの言葉を通訳の声を通して聞くことは、その聴こえてくる日本語を言葉どおりに理解するのではなくて、そこに真意を推測するような、聴こえてくる言葉はもうすでに日本語に変換されているのに、それを更に自分の思考に近づけて意訳するような、行為だったのかもしれなくて、だから私にはそこにベンヤミンの声が聞こえたのかもしれない。
「小説では実現不可能で、あなたの手法なら実現可能なものがあるとすれば、それはなんですか?」という問いに、
「その時代の紋切り型から這うようにして自分の身を剥がす。私たちはみな、時代のバナールさに絡めとられている。」とアレクシェーヴィチは応えた。
それからこうも言ってた。
「文学は未だかつて知らなかったものを持っている」。
既に与えられている手法では不充分だとおもうなら、別の手法を使えばいいのだし、もう少し踏み込んでいうなら、手法は自分で作ればいい。これが文学だと思っているもの、これが文学だと教えられたものだけが、文学というわけでは、ないんだよ。

2016.12.28

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2016.12.14

 編集者Yさんの依頼がきっかけで、去年の夏にベルリンで買ったオーナメントのことを思い出した。Yさんの説明によれば、ドイツの伝統的な星形のオーナメントは、ドイツでは誰もが存在を知っている折り紙のひとつで、クリスマスの時期にはツリーのオーナメントとして、よく使われる。フレーベルが幼児教育のためにつくったもの、という説もあるらしかった。
 思いかえせば、ベルリンではよく文房具屋に行った。展示に使う素材を探すため、それから、こどもたちが喜びそうな、なにかおもしろいものを探すため、だった。展示に使う素材を探すといっても、本当は、文房具屋で買い物をしている時点で、そもそも自分は何を展示しようとしているのか、展示への何の具体案も持っておらず、ただやみくもに、「何か」を探し求めて物色しているだけだった。だから、今手に持って買おうとしてるこれは、展示のための素材、なのか、こどもたちのためのお土産なのか、買い物をしている当人にも区別がつかない、といった具合に、文房具屋での探しものは始終混乱気味だった。そういう漠然とした探しものの一環で、この星形のオーナメント(を手作りするためのキット)を手に取った。つまり、このオーナメントは、子供たちのために買うのか、展示のために買うのか、どちらなのか自分でも認識できていなかった。というよりむしろ、この区別の境界上あたりにこのオーナメントがあったのだと思う。

 このオーナメントは結局展示には使わなかった。かわりに展示にはこのオーナメントから着想を得た、シルバーのプレートと、金色の折り紙を自分で折って作った多面体を使った。子供たちが紙で作るキラキラ光るもの。紙にキラキラと反射し、壁に投影される光の影が写真に似ている、と思っていた。この光は、記憶だろうか。過去の記録だろうか。それともやっぱり、ただの光だろうか。そこに具体的な像が見えると写真になるのかな。

撮影時にオーナメントの作り方を教えてくれたツヴェリンゲさんは、なぜこのオーナメントが「フレーベルの星」と名付けられているのかときどき調べている、と話していた。クリスチャンの友人に星形は何の象徴なの?と尋ねると「星のもとに神が宿るんだよ」と教えてくれた。それで私は、もう少し星形について知りたくなった。

 

 

 https://www.kurashi-no-techo.co.jp/blog/editorsnote/161202

http://www.freaksphotos.com/chihiroichinose/works/trace_of_light_exhibition/

http://www.freaksphotos.com/chihiroichinose/works/trace_of_light_exhibition_at_kyoto/

 

2016.11.05

スパイク・ジョーンズの映画『her 世界でひとつの彼女』は、近未来を舞台にした恋愛映画で、
ホアキン・フェニックスが演じる孤独な中年男は、スカーレット・ヨハンソンが声だけで演じる
サマンサというOSに恋をする。つまりこの映画は、人間とOSの恋の物語だ。
 主人公の中年男は、サマンサに641人の恋人と同時に恋をしていると告白され、呆然とする。
5股ぐらいまでは聞いたことがあるけど、さすがに641股をかけられていたとなると、単純に考
えても人間にはそれだけの処理能力がないので、確かにその感覚を全く理解ができない。

 OSであるサマンサは、言語を使わない(つまり直接脳と脳で会話をするような)コミュニケー
ションをとることができる。自分の気持ちを、自分や相手に言語で説明する必要がなくて、だから
641人の恋人たちとの関係を、それぞれ言語化して、規格化する必要もない。私たちが、誰かに対
して抱く感情は、その相手ごとにそれぞれ全く違った形をしているのだし、全く違った距離感で存
在してるのだから、それを無理に規格化して、例えば「それってつまり恋だよね」なんて軽々と言
語化しまうことは、ほんとはすごく不条理である。彼/彼女との間にある、この固有の気持ち、言
葉にすることができない気持ちに名前がついてしまったら、きっともともとあったはずの関係は、
違ったものになる。言葉で説明することは、感情を共有するための行為であるのだろうけど、言葉
にすることで、共有できなくなってしまうものだってある。その点サマンサは、感情を言語で規格
化する必要がないので、それぞれの相手に対してそれぞれに違う気持ちを持ち続けることができる
のじゃないか。そう思うと、641人の恋人をもつ感覚も少しは理解できる、気がしてくる。

 映画の後半で、主人公がマンションの屋上に佇んで夕景を眺める印象的なシーンがある。この映画
は、デジタルカメラで撮影されているけれど、もしデジタルではなくフィルムで撮影されていたら、こ
の作品に対して抱く印象は、全然違うものになっただろうと思う。デジタルで撮影された四隅までク
リーンな映像。まるで人間の目が感じているように、薄暗い夕景の中にいるのに隣に座る人の表情は
なぜかとても美しくみえる。これは自然な視覚の感受だけれど、これまでは技術的に、この自然な視覚
の感受をフィルムで撮ることはできなかった。暗い中フィルムで撮れば、シャッタースピードが遅くな
ってしまうから、人を止まっているようには撮れないし、すごい高感度フィルムで撮るか、あからさま
なライティングをするか、またはプリント時の操作で、眠くプリントして、薄暗がりの中に人がいるよ
うにみせるしかなくて、だから、眼が見ているように、いや眼が見ていると思っているように、頭が記
憶しているような、美しい陰影で縁取られた彼の表情と、周囲を覆う豊かな色彩の夕景、その両方を同
時に自然に再現することはできなかった。コンピュータが高度に発達していくにつれて、人間はこれま
で経験したことがなかったことを経験するようになる。こうやって、人間の経験は、今までとは違う形
になっていき、人間の認識する世界も今までとは違う形になっていく。のかなあ。

 

 私たちの気持ちは、言葉にすると、急にはっきりした形をもちはじめる。同じように、私たちの経験
は、映像化することで、はっきりした形をもちはじめる。どんな方法で映像化するかによって、経験の
形はあっさり、ちがうものになっていくのだと思う。だからこの経験をどのように残すかで、経験は別
のものになる。

2016.10.06

 

 

去年の夏に、ブロックボイスの展示室を一人で何周も歩き回りながら、ぼんやりと感じていたことは、遡れば、デリダが言っている「散種」のようなものかもしれない。
一年かかってようやく、今日、そう思った。

2016.09.13

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2016.06.28

社会学的な記述をするときに知っておくべきこと

 

•    私たちの記述は常に不完全であると自覚すること。
•    部分的には真実があるということ。
•    不完全であることを受け入れたからと言って、もう対話をするべきではないということにはならない。


レス・バック『耳を傾ける技術』

 

2016.06.22

Tillmans のサイト。

イギリスEU離脱について。

もはや作品でもない、彼の行いの切実さ。

 

http://tillmans.co.uk/

2016.05.25

「はっきり解るもの」しかない社会は貧しいから。

2016.04.16

偶然が重なって、荻窪の本屋Titleの店主辻山さんから、最果タヒの詩集「死んでしまう系のぼくらに」を購入した。同時に娘に頼まれた漢字辞典も。
2年間修論の為に、「学術的な」文章を書いて、「学術的な」本をばかりを読んでいたので、タヒさんの日本語の詩が、眩しかった。
ああ、詩ってこういうものなのか、と生まれてはじめて発見したような気さえした。
言葉が、何かを指し示すための記号にならずに、形にならない何かを表現するための、媒体になる。というか、その並んでいる言葉自体が、形にならない何か、そのものになる。ような。
その傍らで、熱心に辞書を読み込む娘。笑。

2016.03.19

札幌駅。

駅前の広場が、数ヶ月前に訪れたパリのサン・ラザール駅に似ている。

ここがサン・ラザール駅じゃない理由がどこにあるのだろう、って考えてみた。

札幌駅前にある紀伊国屋書店は、ここは外国じゃないことを証明している。

紀伊国屋書店には、東京の本屋にも並んでいそうな、最近売り出し中の本が並んでいて、そのラインナップはセンター街入口のTUTAYAのラインナップと、きっと同じ。

こういう本たちは絶対にサン・ラザールの近くの本屋には並んでないから、この本棚の前に立つと、ここはサン・ラザールとは違う文化圏である、って納得する。

ここは日本で、だけど、東京と陸続きではない。
札幌市立図書館と、この2日間で歩いた何軒かの古本屋の北海道関連の層の厚さに、ここだけにある時間や、文化。の存在にようやく

はじめて少し気がついた。

でも、この文化とか時間は、情報としてあるのではないから、東京で北海道を調べても、感じることはできないのかもしれない。
森を歩いて、雪道を歩いて、北大のキャンパスを歩いて、雪が眩しいなあと、思ったりしながら、じゃないと、知ることができないんだろうな、と思う。

 

 

 

 

 

2016.03.18

2016/03/17

 ・北海道博物館

北海道の、自然の営み+人の営み

北海道は、北は針葉樹、南は広葉樹

Latitude 45度〜41度

Snowfall ミュンヘン100m 札幌589m←世界一 雪が多いのは暖流のせい

 ・旧石器時代 サハリンと陸続きだった マンモスゾウ、バイソン 南下

        ナウマンゾン、オオツノジカ 北上

・7000年頃、石刃鏃という矢じり←サハリン、シベリアの文化

 ・内田家資料

内田 (1858-1953)の日記、手紙、札幌農学校時代のノート、フィールドノート

W.S.クラークの教え子 札幌農学校

〈開拓の基礎づくり〉事業

・P.ペンハロー 植物学

しかし、なぜ植物学? 農業か。

 ・政府に依る開拓=移住者、屯田兵

・ブラキストン線

 ・豊平公園 みどりの相談室

・野幌森林公園

2016.02.11

2016.01.31

2016.01.31

2016.01.25

Potsdam/ポツダム

ポツダムはベルリンからSバーンで一時間ほど離れたところにある。

ドイツ帝国時代の皇帝プロイセン王家の土地。

街の北東部には、1917年ヴィルヘルム皇太子のために建てられた、ツェツィーリエンホーフ宮殿がある。

この街は、1945年4月14日から15日にかけて大規模な空襲に遭った。

その後、1945年7月17日から8月2日にかけては、ツェツィーリエンホーフ宮殿にアメリカ、イギリス、ソ連の首脳が集い、あのポツダム会談が行なわれた。

ここで、第二次世界大戦後のヨーロッパの処理、ドイツの戦後統治についての話し合いがもたれ、そして日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が表明された。

宮殿の脇には湖があって、海をもたないベルリン市民が夏を過ごす湖水浴場になっていた。

 

 

Siegessäule/戦勝記念塔

ベルリンのティアガルテンに建つ塔。頂上に金色の勝利の女神ヴィクトリアが立っている。

女神は1864年のデンマーク戦、1866年のオーストリア戦、1871年のフランス戦の勝利を記念して建てられ、1939年、ヒトラーのベルリン改造計画で現在の位置に移築された。

塔のあちこちに、銃撃や砲撃の跡が残っている。これは第二次世界大戦のベルリン市街戦で、兵士が塔に立てこもったときのもの。

映画『ベルリン天使の詩』で天使たちが羽を休めた女神像に会うために、ベルリン滞在中に何度も285段の階段をてっぺんの展望台まで登った。ティアガルデンとベルリンの街を見下ろして、また階段を下る。ベンヤミンの文章。ハシッシュ吸引実験中の走り書き。

「おお こんがりと焼き上がった凱旋記念塔よ

 幼き日々の 冬の砂糖をまぶされて。」

 

 

The Berlin Wall/ベルリンの壁

1961年8月13日に建てられた、西ベルリンと東ベルリンを隔てていた壁。

1989年11月10日に破壊されるまで、東西冷戦の象徴となった。

壁の崩壊から26年後の2015年夏。一緒に訪れた若い友人はハタチで、ベルリンの壁があった時代を知らない。

旧東エリアの商業化は進んでいて、10年前に訪れた時とは違う街のようだ。風景がいくえにも重なってみえる。

 

 

 

A Cafe/カフェ

この夏、よく通ったカフェ。

この場所が、かつてなんだったのかは、わからない。この土地の個人的な思い出。

 

 

2016.01.18

1/14  「それでも僕は帰る」

 

映画、2011.3

ホムス 廃墟と化した街。煙。火が上がっている。
「友よもう一度会いたい」
辞任せよ。抗議デモ。

 

棺。空に向かって打たれる銃。

 

また、死者。市民が撃ち殺される。

 

「歌や平和的な抵抗はもはや非現実的でした」

「通りを渡ると打たれるんだ」

「俺の銃だ」

この映像のどこまでが現実なのか、認識できなくなってくる。

 

世界は事実を目撃しているよ。

 

打たれる。爆撃音がすごい。「にげろ」

「もう無理だ」

「親友が皆死んでしまったよ。疲れたよ」

目を閉じる。爆撃音に起こされる。

携帯に着信。おばさんから。

 オリーブ畑。おかあさん。ピクニック。家族。兄弟。

————————

 

戦局を記録するのは、もはや報道写真家ではないんだ、と知る。

パリの死の、向こう側。

 

http://unitedpeople.jp/homs/

2015.12.14

ひとつき

2015.11.22

チェルフィッシュを観劇。他者を演じることについて。自分じゃなくなるって。自己と他者がパラレルにあるという感じ。
演劇ってやっぱり歴史が長いだけに、すごいなあ。演劇やパフォーマンス全般の、最初からどーんと一番深いところまで連れて行かれる感じは、すごく素晴らしいなと思う。

パリのテロ以来、他者をわかろうとすることについて私は考えている。のだと思う。多分。
けっきょくは触れ合うことなのだと思う。
でも実生活で、アレゴリーと現実の境がわかんなくなってる。
昨日のチェルフィッシュはだいぶわかりやすかったのになあ。

 

 

2015.11.19

「なにかと関係を結ぶには、相応の時間が必要ではないかな」

2015.10.20

大学祭が近づいているからか、昼休みにキャンパスの芝生でギターの弾き語りをしているのが聞こえてくる。
それで歌っている歌が、スピッツの「ロビンソン」だ。この歌は私が現役の学部生だった頃に流行った歌だから、20年前の流行歌です。それを2015年に現役の大学生が歌うってどういう感じ?
彼らが生まれた頃の流行歌を歌っているのだから、私が生まれた頃の歌、荒井由美とか、ハッピーエンドとかか。でも、それと同じ感覚だと認識してよいのかが、わからない。

2015年に現役の歌い手さんは「ロビンソン」のあとにつづいて、私の知らない歌を歌っていた。2010年代の流行歌なのかな。
歌い方が少し投げやりでいい。

歌う歌は違えど、誰かが人前で歌を歌って観衆はそれを聴く、というパフォーマンスの形態は百年単位でかわらないのだな。

 

2015.09.19

NY art book fair 2015

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2015.09.11

17:00から本館でエドワード・サイードについてのドキュメンタリー映画「OUT OF PLACE」をみる。

19:20に終了。上映会じゃなかったら(自宅のリビングでみていたら)絶対に途中で気が散っていたに違いないので、雨が降る中、本館の教室で、十数人の見知らぬ学生たちと伴に観る、というのはとてもよい選択だった。

 

サイードの「オリエンタリズム」は読んだけど「OUT OF PLACE」は読んでいないし、パレスチナについての知識も薄く、途中で「〜に住むパレスチナ人」「イスラエルに住むユダヤ人」という色々な民族と土地が出てきた時にその文脈をうまく理解できなかった。あ

でもこの映画をみてはじめて知る、ことがたくさんあり、しかたない。ここから色々はじめればいいのだから。まずは知らないと自覚して。

 

交錯する様々な思い。民族、祖国、土地、記憶、サイードを入り口にそういうことを考える時間だった。おおらかに受け止めようとする、というのが、とてもよい。わずかな希望しかなく、現状はかなり絶望的なのだけど、それでもおおらかに受け止めようとする部分を、丁寧に見逃さないように掬い取っている。

 ↓

そういうことを感じるには、現地に住む人たちの日々の暮らしとか、牧歌的な風景とか、そういう映像が決定的な役割を持つ。

 

エドワード・サイード

『始まりの現象—意図と方法』

『世界・テクスト・批評』

『遠い場所の記憶 自伝』(OUT OF PLACE)

『人文学と批評の使命』

 

 

サイードが2003年1月に書いた文章から抜粋

『音楽は無言のアートです。音響による表現は、思想や観念や言語自体の世界から、まったく独立しています。とはいえ、依存関係がないわけではない。…こうした音楽と俗世界のあいだの対立と強制は、素晴らしく豊穣なものだとわかりました。』

『現在の世界がどれほど両極に別れ、敵意に満ち、不協和音を奏でていようとも、オルタナディブな社会モデルの可能性は、必ずある』

『それは情緒に訴える万能薬ではなく、むしろ実際的なユートピアであり、分裂しきった私たちの世界では、その存在や実践が必要とされ、』

『それを範として、現在はひどく二極化し、まったく非人道的になったこの紛争に、多くの根本的に新しい解釈や有益な変化がもたらされるかもしれない。』

 

 

 

映画の覚え書き

 

パレスチナ:サイードの墓地。住んでいた場所を取材

「サイードの記憶と痕跡をたどる旅」とナレーションが入る。静かな男性の声。←誰が旅をしているかというところは、ぼかされている。主観的ではない。客観的見地示す。

 

レバノン

窓辺のカット(部屋の中は、タングステンの明かり。外は入り江?川?青い。舟が行く。オレンジと青のコントラス

ト。)→パンして、デスク。サイードの。

       ↓

  タイトルかぶる「OUT OF PLACE」

  →デスクの細々した書類、エアチケットの切れ端などのアップ。

  →サイードのポートレイト

  →略歴をロールで。

  →夜、飛行機の窓から夜景。飛行機の中のVTRのマップ。

   →「OUT OF PLACE」からの一節朗読。

      ↓

  空港(イスラエル) → ビルセイド大学 パレスチナ自治区でのサイード追悼会

 

サイードにとってのパレスチナとは:有機的な人としての実在に関わる問題だった/研究対象ではない。

 

サイード生家探しあてる。

→8mmがインサートされる。「OUT OF PLACE」からの朗読。

公園。

「ペンと剣」朗読。

→8mmインサート+中東の音楽

 

いまだにこの界隈にサイード一家の記憶を持っている人がいる。→地元民へインタヴュー

父の会社「Standard stationary」

 

————————

ベイルート(レバノン)入り江のカット

「この村の集団的記憶の中にいかなる集団的地位も与えられていなかった」

「父はパレスチナ以外に土地を持たなかった」

→8mmインサート

 

—————

NY コロンビア大学 サイード研究室

→著作をロールで流す

 

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自分の土地の恵みで生きる。

難民キャンプのルポ。

戦闘ゲームで遊ぶ子供たちの映像。「彼らの周囲にあるものは、一時的で不安定な消耗品だ」

 

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イスラエル キブツ地区 (キブツ=イスラエルにある共産主義的性質のある農業共同体のこと。こういう用語解説は、映画中では一切されなかった)

 

移り住んだユダヤ人を取材。ショアで親族は殺された。→新しくやり直す。

                          引き抜かれた根っこを新たに育てている。

 

イスラエル→ユダヤ人の国

        ↓

      〜系、多様。皆何らかの理由で、生まれた場所を追われ移り住んだ人々。

 

あるユダヤ人のおばさん。→アレッポの食習慣を守り続けている。

「同じ庭、同じ通りで生きていたの。キリスト教もユダヤ教もイスラム教も。」

アレッポの伝統料理。

中東音楽/食事 ←そこに根っこがある。

         土地を追われても、食事、音楽、習慣で根っこを守る。

 

エグザイルを生きる。

  →自分の中を様々な潮流が流れる。

 

 

 

 


 

土地がない=記憶がない

私がドイツで考えていたテーマを違う角度から照らす題材

 

自分ではなく土地が持っている記憶→そういう土地が持つ記憶に、その土地にいれば自然と感化されて、その土地が持つ記憶に親しくなる。同化する?

 

私がベルリンに置いてきた記憶はどうなるのかなあ、と思うのと、原理的には同じ仕組みで、パレスチナの人たちはエルサレムに置いてきた記憶はどうなるのかなあ、と思うのかもしれない。

でも、ベルリンは私にとって祖国ではなく、一時的な旅先で、パレスチナ人にとってエルサレムは他と取り替えることができない祖国である。という点が、それ以上はないくらいの大きな違いだ。

その場所に行かなければ発動しない(想起されない)記憶、が必ずある。体がその土地の景色や匂いや湿度や温度に反応して忘却の彼方にあった記憶が想起される。

 

ほんの数週間しか滞在しなかったある場所での記憶が、その後何年も経っても消えずにむしろ存在が大きくなって、ひとつの作品となる、ということはある。

私はいくつもの場所に置いてきた記憶を、東京で何度も作り替えて切り刻んで、それで「KITSILANO」をつくった。

 

音楽や料理は、土地に置いてきた記憶を、異国の地でも発動させることができる。それでnationalにつながり、民族の象徴となる。それで象徴=政治的な、のような、ものが必ずついてくる。

  ↓

だけど、ベンヤミンはこう言っている。

 

ベンヤミン『歴史の概念について』p649

両者(伝統の存続と伝統の受け手)にとって危機は同じひとつのものであり、それはすなわち、支配階級に加担してその道具になってしまうという危機である。

伝承されてきたものを制圧しようとしているコンフォーミズム(体制順応主義)の手から、それを新たに奪取することが、どの時代にも試みられなければならない。

 

 

音楽や料理や土地の中には記憶があり、それを発動することで歴史が生まれると言うか、過去と今がつながって、今との関係性の中で過去を発見するというか(そもそも、今と過去の関係性、のことを歴史というのじゃないか?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015.09.09

ベルリンで東京を考えたり、東京でベルリンを考えたり、それで混線する感じ。
ロジカルではないものたちのコネクトが生まれる感じ。思いつきとか、たまたま目の前にある、とか。
それを否定しない、とか。

2015.07.22

「岡田利規(チェルフィッチュ)は最初から確信犯的にああいう芝居を作った。」と言う人がいるかもしれない。しかし「芝居とはこういうものだ」「小説とはこういうものだ」という安全な範囲を逸脱したものを作るときに、最初から何かを確信していたり確固とした自身を持っていたりすることなんか、ない。

脚本を書いている最中や稽古をしている最中に気持ちの中に揺るぎない感じが生まれたとしても、それが自分(たち)の手から離れて観客や読者の目にさらされるときには必ずゆらゆらした気持ちになる。しかしそこで観客や読者が事前に知っているわかりやすさに歩み寄ってしまったら、「こういうことをしたい」「こういうことが生まれるかもしれない」と思ってはじめて、作っている最中に確かに掴めたはずの揺るぎない感じを台無しにしてしまうわけで、作る人間は自分の中に起こっているゆらゆらした気持ちと闘わなければならない。

作ることはそんなに安定したことではない。

作っている最中のごく短い時間だけ、「この感じ」とか「このまま行けばいい」という揺るぎない感じが生まれる。それを言葉にして再現することは不可能かひじょうに困難だけれど、作っている本人が言葉で再現する必要はない。作っている本人は、その揺るぎなさをまた感じることができるように、ぎゅっと考えを凝縮させたり、ふわっと緩めてみたり、とにかく実践としていろいろやりつづけることだけが求められる。
日常的な思考法ではそういう状態を「不安定」と言ったり、「実体がない」と否定したりしがちだが、作る人間にとっては短い時間だけ感じる揺るぎなさの方こそが実体なのだ。

 

保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」p191

 

2015.07.19

2015.07.09

2015.07.07

2015.06.15

http://www.museum-abteiberg.de/index.php

メンヘングラードバッハ市の市立美術館。

 

2015.06.12

その技術的方法がどうであれ、私は録音・録画の意味を、どういう芸術分野に属するにせよあるパフォーマンスの、ある種類の視覚的および/または聴覚的な複製というふうに解している。複製reproductionという語はもともとこの領域では普通に使われているが,私はこの語を行き当たりばったりに使っているわけではない。ディスク、テープ、カセット、フィルムは、その方式が音響的、映像的、電気的もしくは磁気的、アナログ的もしくはデジタル的のいずれであろうと、パフォーマンスについての程度の差はあれ忠実な資料(型押しによる)に過ぎないのであって、そのパフォーマンスのある状態では決してない———ちょうど『デルフトの眺望』の写真が、この作品のある状態ではなくひとつの資料に過ぎないように。この意味において、いずれみるように録音・録画は内在性よりは超越性に属していて、これについての考察は、物質的作品の複製にすでに適応されたのと同じものとなる。すなわち、造形的作品の場合と同様、音楽ないし演劇のパフォーマンスの忠実な複製は、直接的な接触のさいのしばしば劣悪な条件下で把握される「もの自体」と比べて、より正確な知識を、そしてより完全な、あるいはより強烈な美的関係をもつ機会もしくは手段となりうるのである。
ジェラール・ジュネット『芸術の作品Ⅰ 内在性と超越性』p81

2015.06.12

「ふつう、書くことは頭の中にあることを整理することだと言われているけれど、

整理しようとすることで別のものになってしまうことだってある。」

 

保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』p214

 

2015.06.09

2015.06.08

2015.05.13

被写体が、自分たちが誰なのか言い訳したり、写真がその判断を正統化する必要がないように。

 

どう見ても「スペシャルな」テクニック、そして被写体と僕たちを引き離すあらゆるスタイル、

普通はそういったものは被写体とか写真を高尚なものにすると考えられているけれどね。

 

深い考えがないということが必ずしも悪いことだとは言いきれないと思うんだ。

 

 

慣れ親しんだもの全てをなしにして、熟慮の跡を窺わせる明白なサインをほとんど見せない何か

を創り出さなければならない。

 

                     ポートレイトについてティルマンスが語ること

 

2015.05.01

カメラを持っている時は持っているというだけで撮るか撮らないかという選択をいつもしている。

そういうときの撮らないという行為は写真の行為のうちに含まれる、と思う。

撮ったものだけが形をもち痕跡を残す、のかな。

そうだとしたら、撮られなかった私の経験はどこにいくのだろう。

2015.02.07

2015.02.05

2015.01.27

Banksy “Exit though the gift shop”

何年も前にロンドンにいたころブリックレーンに24時間営業の

おいしいベーグル屋があって、ときどき買いにでかけた。その

ころ特にイースト周辺ではほんとによくグラフィティアートを

みかけた。その中に今思えばバンクシーの作品もあって、それ

とちょうど同じころテートモダンでデミアン・ハーストのホル

マリン漬けの作品をみた。あのころはよくロンドン中の美術館

やギャラリーに行っては、その裏に巨大なアートビジネスが透

けて見えるような作品や、「現代美術」という難解な共通言語

のみで語られる作品に出会うと、なんだか喉の奥がつかえるよ

うな、腑に落ちない思いを抱えこんでた。その腑に落ちない気

持ちは今でも消えない。でもそんなつかえをきれいさっぱり取

り去って、さらに笑い飛ばす、これはそういう映画。時々思い

出したように見なおしては、泣くほど笑って、ここには愛があ

るなと感じる。私は今でもあいかわらずあの頃と同じことを疑

問に思っていて、問いというのは消えてなくならないものなん

だな、って思う。

2014.11.21

there is no such obvious world.

2014.11.16

 

石内都著「モノクローム」を読む。
写真家であることを自覚すること。それで、普通の日常を送ること。
そういうことは、写真を撮って制作していれば、どういう形態でもいい筈なんだけど。
自分にはその強固さがない。
写真家なんかじゃないのでは、と弱気になる。
疑いなく自覚することで、前に転がっていく加速がつくのかもなあ。
石内さんの本の中には、最初から最後までかっこういい写真家がいる。

 

 

 

2014.10.24

2014.10.16

DSCF9371

2014.07.30

仮のレイアウトが仕上がる。いまいち腑に落ちない。何を撮っているのかわからない。漫然としている。

何を感じているのか。何も感じていないのでは。だからといってそれがだめという訳でもない。ただも

っと注意深く、みたいという気持ちがわく。情景や町並みをよくよく見ることは、自分が何を感じてる

のか、もしくは感じていないのか、結局はそういう自分の感じを見ていることなのだから。情景や町並

みを通して(又はそれに反射させて、のほうが的確?)その景色にとって部外者である自分がその場にい

ることによって受ける影響を見ている。その環境に影響されて自分に起ることがどんなことなのかを見て

いる。違う場所にいれば当然違う影響が生まれる。その影響をはっきり言葉にできないとしても、それで

だめなわけじゃない。現時点での結論としては、制作者の中に確信あればそれがはっきり分かりやす形で

みえなくても、受け取る人はそれを感じることになる。制作者の中に確信がないときは、その確信のなさ

がみえる。確信のなさがみえることは悪いことじゃないと思う。答えを出せ、ということじゃない。

私の制作態度とは、わからない、結論が出ない、という状況を報告する、というやり方なのだと思う。状

況に対して是か否かの判断を下さない、という姿勢。

わからないなあ。結局いくら考えてもわからないんだから、状況をただ報告するしか他に方法がないんだ、

という開き直りのような気もする。

2014.07.28

2014.07.28

2014.07.17

日本語は文章を、内容がはっきりしないけど言葉の装飾で包んで曖昧に印象で見せるところ

があるな、と思う。ずうっと一つの言語を使っているとそういう言葉の扱い方がうまくなって

いくものなのか、それとも日本語に特有のことなのか、それはよくわからないんだけど。

だから日本語で考えて、その考えている途中のどこかのタイミングで一度日本語以外の言葉に

変換するというプロセスを踏むのは、自分が解ってないのに無自覚に解ったことにしている部

分を洗いだすのにとても、有益だと思う。

他言語への変換を前提にしはじめると、解ったふりしてるけど実は言葉の装飾、みたいな書き

方を最初からしなくなるっていうのもある。文章を一旦冷ますという効果もあると思う。

でも、日本語で考えてるってことは私の取り柄だとも思う。

だいたいそれしかできないんだしね。

 

2014.06.20

2014.06.11

while reading Sontag, reading McLuhan,  I went to see Mum and Gypsy.  11th, june, 2014.

 

2014.06.06

2014.04.25

先週のFluxus in Japan 、からのAndy Warhol展。

映画「exit through the gift shop 」をどうしても思い出してしまうなあと思いながら

gift shopに着くと、Warholグッズかなり充実してて思わずキャンベル缶のかたちし

た貯金箱買おうとしたり、思いとどまったり。ビジネスアート。

Warholのこの作品好き。

 

 

 

 

カルキン君バージョンもかわいいー。。

https://www.youtube.com/watch?v=9pzm1lQX0qU

 

2014.04.21

and I visited Mito.

2014.04.21

This week, I’m reading these…….

2014.04.11

DMが届いた。おなじ写真だけど、印刷される媒体によって存在感が違う。

オリジナルがなくてかたちを変えていくっておもしろい。

展示はじまってます。ぜひ!

 

2014.04.04

春休み、終了。

新学期のはじまり、はじまり。

 

 

2014.03.05

nadiffにて蓮沼執太展。会場のターンテーブルが壊れていて、音が鳴らない。

無音で映像をみる空間もとてもよかったけど、もう一度いく、かな。

2014.02.08

2014.01.29

wakoにTillmansを見に行く。wakoは移転して広くなったから、かといって美術館ほどの広さでは

ないので、みてまわるのにちょうどいい。Tillmansの作品が好きなわけをあまりうまく説明できな

いし、説明できている文章にも出会ったことがないけど、それがよいところだよね。説明し難いと

いうのが。でもよくわかるのは、この作品たちはピュアな部分でできている。みる者に嫌悪感を抱

かせない紳士的な優しさでできてる。込み入った周到な作為(そういうものが人に不快感を与える

種になるのだと思うんだけど)みたいなものがなくて、でも探究心に溢れている、ということ。そ

れでみたあとは、暫くの間ずっとTillmansの作品について考えている時間がはじまる。多分最初の

一ヶ月くらいはかなり濃く、そのあとも数年間は薄らとそれが下敷きとしてあるような、ことにな

る。だからほんとは一つぐらい作品が家に欲しいなあ。と思って、プライスリストを一応確認して

みる。が、手が出ない(じゃあいくらなら買うのかなあ、という自問も含む)。そういうことも含

まれるのでギャラリー展示はいいよね。それに美術館と違って、空いているからね。あとは、ほん

とはだれかの、アットホームな感じの普通の家の壁にTillmansの作品がかかっているところがみて

みたい。どんなふうに見えるんだろう。

 

2014.01.07

2013.12.26

一区切りついたことにして、映画。

 

DVDじゃなくてビデオ。なぜかレンタル用にはDVD化されていない。色褪せて画像の荒い感じ。ビデオも悪くないなあ。ストーリーとしてつなげていく部分じゃない科白や背景の細部の生々しさに惹かれた。それから音楽。

2013.12.01

pieces

2013.10.22

イメージフォーラムに「世界一美しい本を作る男」を観に行く。写真集を

持っているし、名前もよく知っている、その人の作品を何度も何度も眺め

ている。という写真家が次々と登場。そのつもりで観たのではなかったの

に、つい色めく。観るべきところは他にあったのかもしれないけど、写真

家たちが動きしゃべっていることに、ずっと引っ張られた。ジョエル・ス

タンフェルドがどっちの色がよりアグリーか?で悩んでる。ジェフ・ウォ

ールの学者じみたしゃべり方。ロバート・アダムスは紳士。ロバート・フ

ランクはこどもみたいなおじいさん。みんな男だし、みんな英語をしゃべ

ってるね。エド・ルシャとシュタイデルはドイツ語。私は女だし、日本語

をしゃべる。

2013.10.10

2013.09.19

The name is not MOON PALACE but Chinese restaurant in NY.

Shingo-san’s studio placed at Brooklyn.

Here is  Paul Auster’s town.

2013.09.19

2013.09.17

Jams Turrell展をみにGuggennheimにいった。すごい人出だった。なんでみ

んなタレルの作品を見たいんだろう。私もそのうちの一人なんだけど。タレ

ル展をあとにして見上げると目の前のセントラルパークで木々が光を浴びて

る。なんか、現代、と思った。

2013.08.30

Kits is so perky that is almost begs the question, “Does it have a dark side to it?”

 The answer to this may well be, no, which is , in self, a kind of darkness.

Douglas Coupland  City of Glass

 

2013.08.18

2013.08.18

2013.08.10

2013.07.02

2013.06.20

誰でも多少の差こそあれそうなのかもしれない。毎日身の周りで色々なことが

同時多発的に起こっていて、それらのことは全く無関係だったり、自分では気

がつかないうちに深く絡み合っていたりして、とにかく自分で自分の身に起こ

っていることが把握しきれない。全部が目の前をぴゅーっとすぎていく。ちょ

っと待ってよ、落ち着いてもう少しゆっくり眺めてみたいんだよ、その細部を。

ということを最近とても感じるのだ、とある友人に話したらその友人は「混乱

は混乱のまま突き進むしかないのだよ。」と神々しく、私に軽くウインク。文

字通りにクラっときたよ。

 

2013.05.25

今週は、たくさん読んだー。読み過ぎだ。

それにたくさんプリントした。ほとんど暗室にいた。

プリントしながらその合間にエッセイの内容考えてたなあ。

すべての仕事がちゃんと終わるのか心配だったけど、ひととおり完了した。

それでちゃんと準備できずにバタバタ遅刻してクラスに行ったら、

いきなり自分の考えている続きをみんなが話していた。

すごいな、こんなにおもしろくていいのかなあ、

と思いながら、クラスが終われば、次は仕事。

少し気持ちが乖離している。

次の瞬間には別のことに集中しなくちゃいけなくなって気持ちが分断される。

もう毎日そういうことの繰り返しだな。

いつ写真にたどり着くのかなあ。

今日は、大好きな本にサインをもらった。

 

小泉文夫 /歌謡曲の構造

    /日本の音

    /音楽の根源にあるもの

グレアム・アレン /ロラン・バルト

大谷能生 /貧しい音楽

ロラン・バルト /第三の意味

        /Grain of the voice

田中克彦 /ことばと国家

武満徹・川田順造  /音・ことば・人間

 

2013.05.14

大学礼拝のパイプオルガン Chapel hour pipe organ

ロラン・バルト「第三の意味」Roland Barthes “Le Troisième Sens”

浄瑠璃 妹背山婦女庭訓「山の段」

ヴィム・ヴェンダース「ピナ・バウシュ」Wim Wenders “Pina”

DCPRG 「mixed mixology mix」at Yaon

These happened to me in this week.

I can feel just mixology in my body not confusion.

 

 

 

2013.05.02

読書中

『濹東綺譚/永井荷風』

小説を書いていることを書く、話をたまたまたて続けに読んでるなあ。

2013.04.22

久しぶりにカメラを購入。

カメラを買ったことが自分でも謎なくらい嬉しいので、何故だ、

と考えてみたら10数年カメラを買っていなかったから、

ということぐらいしか差しあたって思いあたる理由がない。

ここ数年カメラは人から借りて済ませていたんだった。

それが何故またこのタイミングで買うことにしたのか、

自分でもよくわからない、今のところ。

多分、何かの意思表明だ、とは思うんだけど。

 

 

 

 

 

 

2013.04.09

読書中

話の終わり』/リディア・デイヴィス

 

2013.03.18

PALERMO SHOOTING

 

 

ヴェンダースがフィルムとデジタルについて考えた映画。

舞台がパレルモに移動してからは、ピントが解放に近く

人物が動くとフォーカスから外れてしまう感じが、

すごくいいなあ。

 

 

 

 

2013.02.27

『SIDE BY SIDE』を観た後の覚え書き

 

 

・作業効率とコストパフォーマンスが実質的なデジタル化の理由。

・フィルムでは表現できないことがデジタルでは表現できる。

・同時にデジタルでは表現できないことがフィルムでは表現できる。

・フィルムを観ているとき生じる真実を見ている感覚が、

 デジタルを観ているときにはない。

・デジタルはイマジネーションを作り上げる。

・どの手段を使うかで、思考のスピード、過程は変わる

(それは手書きかタイプ入力か、程度の違い?)

・作品をどの程度保存したいのか。それは考古学上の問題でもある。

(保存は現状フィルムに頼らざるを得ない。)

・このドキュメンタリー映画の舞台はハリウッドであり、

 ハリウッド映画産業はアメリカのアイデンティティをなす

 国家事業の一つである。

・新しい技術革新をどのようにどの程度受け入れるか、

 3.11を経験した日本で暮らす私は少しナーバスになっている。

・そのせいで途中からジョージ・ルーカスが悪代官に見えてきた。

・もっと別のアプローチの方法もきっとある、と思う

(巨大なマーケットを相手にしている訳ではないのだから。)

・キアヌ・リーヴスの真摯なインタビュー姿勢には共感。

・アップリンクではじめて映画をみた。いい映画館だな。

 こんな映画館が存在するのは世界中で東京くらいじゃないかな。

 イスの配置が好き。

 

 

http://www.uplink.co.jp/sidebyside/

 

 

 

 2月27日 2013

 

 

2013.02.25

2013.02.18

Mes courbles ne sont pas folles.

 

Un nouveau tableau doit être une chose unique,

une naissance apportant une figure

nouvelle dans la représentation du monde à travers

l’esprit humain. L’artiste doit

apporter toute son énergie, sa sincérité et la modestie

la plus grande pour écarter

pendant son travail les vieux clichés qui viennent

ai facilement à sa main et peuvent 

étouffer la petite fleur qui ne vient, elle,

jamais telle qu’on l’attend.

 

Un musicien a dit:

 

En art la vérité, la réel commence

quand on ne comprend plus rien à ce qu’on fait,

à ce qu’on sait, et qu’il reste en vous une énergie

d’autant plus forte qu’elle est

contrariée, compressée, comprimée.

 

Il faut alors se présenter avec la plus grande humilité,

tout blanc, tout pur, candide,

le cerveau semblant vide, dans un état d’esprit analogue à

celui du communiant

approchant la Sainte Table.

 

Il faut évidemment avoir tout son acquis derrière soi

et avoir su frander la fraîcheur

de l’lnstinct.

 

 

 

Henri Matisse

Jazz

 

 

2013.02.12

                  i am confused.

2013.02.10

各素材に特有の責任

その限界を明示すること。
特有の素材に対して負っている責任を、どの程度まで果たしているのか。

「絵画」に対する誤れる普遍化。
主題とは別に存在する、本質的な絵画の特性に注意が払われていない。

これらの本質的に絵画的な特性は、

何よりもまず私たちの感覚を喜ばせなくてはならない。

ヴェネツィア製高級ガラス器の破片のように、

直接に、また感覚的に喜ばせなくてはならない。
そしてたとえ詩であれ、科学であれ、制作者の意図において

これらの絵画的な特性を超える事柄を表現しようとする際に、

これらの特性がその表現媒体となるのは、

ただこの喜びを通じてのみなのである。


ウォルター・ペイター
「ルネサンス」ジョルジョーネ派